
「日出づる里」・上高下(かみたかおり)にある、高村光太郎の文学碑です。昭和62年、上高下に展望広場が整備されたとき、増穂町がつくりました。
碑文には、「うつくしきものミつ」とあります。この碑文は、光太郎が一番好きだったことばとされており、光太郎は何度も色紙などに書いています。「ミつ」は「満つ」「三つ」などとも書かれていますが、本来は「ミつ」でした。「美しいものに満ちている」ということを意味していますが、それだけでなく、上高下を訪ねたときの、ゆずと人情と富士山という三つの美しいものを示したくて片仮名にしたと考えられます。

「日出づる里」上高下の展望広場付近です。
右の方向に、富士山がどーんと見えます。
一番左に見えるのが、
井上くまさんが住んでいた家です。

井上くまさんが住んでいた家です。
高村光太郎は、この座敷の中から、
軒端ごしに富士山を見ました。
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昭和17年10月、高村光太郎は穂積地区にある上高下(かみたかおり)を訪れました。読売新聞が企画した「日本の母」というシリーズで、戦争により息子を亡くした上高下の井上くまさんを取材するためです。
このとき高村光太郎は、上高下の景観や人情に感動し、与えられた新聞記事のほかに「山道のをばさん」と題する詩を書いています。ここでは、そんな高村光太郎と当時の穂積村のことをご紹介します。
*青字は、筑摩書房刊・「高村光太郎全集」よりの引用です。一部の漢字を仮名になおし、仮名遣いも一部を新仮名遣いに変えました。ご関係の方で、問題があるとお考えの向きはご連絡をいただければ幸いです。
(前略)私は何よりも、どうしていわゆる「日本の母」が特にその人の姿をかりてその土地に存在するに至ったかが知りたかった。その人の人徳、そのまた人徳の生まれる何かの力が知りたかった。そういう思いで私は自分の命じられた山梨県南巨摩郡穂積村上高下という所へ出かけたのである。
昭和十七年十月十四日にその部落におられる井上くまさんという方を訪問することとなった。
光太郎は前日鰍沢(かじかざわ)に宿泊し、翌朝、穂積村へ向かいました。
穂積村村役場の望月さんがここから同行される。用意の馬が私を待っていた。気がひけたが好意に甘える。村役場の前を通っていよいよ急坂の続く里道を登る。左右の傾斜に桑が多く、特産の柚子(ゆず)の畑もある。ほどなく一つの峠の上に出る。たちまち前方がかっと開けて正面に大きな富士山が現れた。「上高下は富士がよいですよ」と望月さんがいう。また急坂を登ると低地を越えてますます富士が高くそびえる。
こうして光太郎は、午後二時ごろに井上くまさんの家に着きます。そして、病気がちの夫を助けて懸命・誠実に働き、極貧に耐えて二人の子どもを育て、その一人を戦争でなくしたくまさんの話を聞きます。
(戦病死した)重秋さんの戦病死の知らせは、去年十月二十六日に届いた。(中略)「電報があがりしいして」といって小母さんは黙った。やがて軍から送達された同君の遺品の箱を開いて、鏡やビールの栓抜きや針や糸巻きや手帳を出して余念もなく小母さんはいじっている。
珍客があると必ず出す習慣であるというおだら(うどん)を小母さんは一同にごちそうしてくれた。いろんな野菜の煮付けを手にのせてくれる。それが実にうまく、私は遠慮なく食べた。話が一応すんだのでふと振り向いて外を見る。軒端一ぱいにさっきの富士山がまったく驚くほど大きく半分雪をかぶって立っている。実に晴れやかに、さわやかに、山の全貌を露出して空を支えるようにそびえている。(中略)富士山の名所は諸所にあり、私もずいぶんその景観を見て歩いたが、こんな立派な富士山ははじめて仰いだ。
そして光太郎は、
上高下の娘はからからと笑うと他村の人がいうそうであるが、まったくこの部落の人達の清らかさ、心の美しさ、一致団結のたくましさは類がないように見える。
自然は人を作る。この霊峰のこの威容に毎日毎朝接している上高下の部落は幸いである。井上くまさんその人にはもとよりだが、この部落全体としての雰囲気に感動したということを私は強調したい。(中略)娘さんたちがからからと笑うのも無理ではない。
などと感想を述べます。そして、
「私も心を洗われ、何か身のうちの軽くなったような気がして」、もう一度馬に乗り、帰途につきました。
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